一心専念の行

一心専念の行

先きに述べたように、定専坊という寺号は、蓮如上人の命名であり、それは善導大師の「散善義」の中にあるお言葉に依ったものであります、それでは、定専という文字は、いかなる意味をあらわすのでしょうか。
一言でいえば「定」は-正定業-ということを意味し「専」は々一心専念ということをあらわすのです。すなわち、正定業を一心に専念するということで、これは浄土真宗の信心を、直接的に簡明に表示したものといっていいでしょう。
正定業というのは「正信偈」の中に「本願名号正定業」といわれたものと同じで、み仏の願いから与えられた、南無阿弥陀仏というお名号は、正しくわたしたちの救いを決定された業因であるということです。それを丁心専念するというのはひとすじにその救いをいただいて、つねにお念仏をとなえるということです。
南無阿弥陀仏というお名号は、お母さんのお乳のようなもので、赤ん坊は、自分の力では、食べることも、生きることもできませんが、お母さんが、かわりに食べて、その食べたものを、全部血の中に消化して、甘いお乳にして赤ん坊にそそぐから、赤ん坊はただそれ呑むことによって、自然に成長していくのです。すなわち、お乳は、お母さんの血しおを、わが子に通わせているのであって、その中には子供が成長するのに必要な、あらゆる滋養がこもっているのです。しかもそれを呑みさえすれば、自然に生長するということは、お乳の中に決定した、動かすことのできない道理であります。
それと同じように、南無阿弥陀仏というお名号には、み仏の智恵と、慈悲に消化された、救いの生命がこもっているのであって、わたしたちを、み仏とおなじさとりに同化するという、あらゆる徳が決定されていることを、正定の業因というのであります。
ですから、わたしたちは、それをいただきさえすれば、み仏と同等なさとりの結果がえられるのであって、そのいただくことを、一心専念と示されたのです一心専念というのは、赤ん坊が、お母さんのお乳に満ち足りて、安らかにほほえんでいるのと、少しも変らない心持ちで、み仏の救いに充溢したものは、他に何ものも恐れることなく、また祈り求める必要もなく、ひたすらみ仏の光りの中に安住して、一歩一歩力強く、無碍の一道を前進することができるのであります。お念仏をとなえるということも、となえたかわりに救われるということでなく、すでに救われた幸わせを、喜びたたえるほかはないので、これを御恩報謝の念仏というのであります。
しかもそれは、つねに仏とかよい、仏の力をわが力とし、仏の命をわが命としたのですから、親鸞聖人は、まことの念仏者は、如来とひとしい徳をえているといわれています。かくてまことの念仏者は、つねに動揺することのない信念と共に、生活することができるので、人間はこうした信念で行動してこそ、人生の生きがいも感じられ、人生が楽しく過ごせるのです。またこうした人こそ、ほんとうに世の中のためになる人だといえましょう。

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