定専坊について
~石山本願寺・蓮如上人と定専坊~

石山本願寺と定専坊

当山は、行基菩薩の手によって創建され、真言宗に属して「西光寺」と呼ばれていました。
南北朝時代の建武三年(1336)、湊川の戦いに敗れた楠正成は自刃しますが、その孫であった二郎左右衛門尉正勝がこの地に隠棲しました。今境内に伝わる五輪塔は、正勝公とその子正盛、信盛両公を偲ぶものと言われています。
その後、本願寺第八代門主蓮如に帰依した住職浄賢は浄土真宗に改宗し、寺号も「定専坊」に改めました。以降本願寺と強い絆が築かれていきますが、浄賢の孫了賢の時代に石山戦争『元亀元年(1570)~天正八年(1580)』が起こります。講和によって戦いが終結した直後、石山本願寺は信長によって火を放たれ、三日三晩燃え続けました。
そのとき本願寺から運び出されたのが当山の『梵鐘』で、天正時代の鐘声を響かせつつ、今に伝えています。

蓮如上人と定専坊

蓮如上人御病中、大坂殿より御上洛のとき、明応八、二月十八日、さんばの浄賢〔の〕処にて、前住上人(実如)へ対し御申しなされ候ふ。御一流の肝要をば、『御文』にくはしくあそばしとどめられ候ふあひだ、いまは申しまぎらかすものもあるまじく候ふ。この分をよくよく御心得あり、御門徒中へも仰せつけられ候へと御遺言のよしに候ふ。しかれば前住上人(実如)の御安心も『御文』のごとく、また諸国の御門徒も、『御文』のごとく信をえられよとの支証のために、御判をなされ候ふことと[云々]

(『蓮如上人御一代記聞書』より)

蓮如上人が御往生(三月二五日)なさる約一箇月前の、二月十八日に蓮如上人は三番(さんば・現豊里)の地にある定専坊を訪れ、住職である浄賢に対して親鸞聖人が御取継くださった「お念仏」の肝要は『御文』に書き残したと言い残されています。このようなことから、定専坊は蓮如上人最後の御旧跡であると考えられています。

以下、第十六世住職の山本佛骨が雑誌「一味」に掲載した定専坊の由来です。ご興味のある方はご覧ください。

蓮如上人と大阪
三番の歴史
浄賢の転宗
石山戦争と了顕
天満の分立と月筌
一心専念の行
江戸後期創建の本堂
江戸後期創建の本堂
平成28年に改修された山門
平成28年に改修された山門
蓮如上人遺跡
蓮如上人遺跡

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