蓮如上人と大阪

蓮如上人と大阪

蓮如上人と大阪の関係は、今さらいうまでもありません。すなわち、上人七十五才のとき、山科本願寺を、第八子実如上人にゆずって、ご自分は大阪に出られました。その後、ここを拠点に、摂津、河内。堺、大和を、本格的に遊化されたのであります。後年の石山本願寺(現在の大阪城の場所)はここに基礎が築かれ、今日大阪にご法義が栄えているのも、ひとえに上人のお徳が、遺香を放っているといわねばなりません。また商都大阪が、今日のように発展することを見通して、ここにご法義の種をまいておかれたことも、まったく上人の慧眼であったと景仰されます。
しかるに、上人がご住生の一ヶ月ほど前、にわかに山科本願寺へ帰られることになりました。じつは上人ご自身は初めから大阪を墳墓の地ときだめ、ここに骨を埋めるお考えであったようですが、実如上人や、お弟子たちは、どうしても山科本願寺に帰っていただくよう懇請し、京都からわざわざ船を仕立てて、淀川をくだり、迎えに出られたのです。淀川というのは、むかしは水路が唯一の交通の便に利用されていたからです。そこで上人もやむなく、この懇請に応じ、迎えの船に乗って帰られました。それは明応八年二月十八日のことでした。このことは「蓮如上人御一代聞書」の第三〇三条に、つぎのごとく記載されてあります。

蓮如上人御病中、大阪殿より御上洛の時、明応八、二月十八日、さんばの浄賢処にて、
前住(実如)上人へ対し御申しなされ候。御一流の肝要をば、御文に委くあそばし、とどめられ候間、
今は申しまぎらかす者もあるまじく候。此分をよくよく御心得あり、御門徒中へも仰せつけられ候へと、
御遺言の由に候。然れば前住(実如)上人の御安心も、御文のごとく、又諸国の御門徒も御文の
ごとく、 信をえられよとの支証のために、御判をなされ候事と云云

これに依って、大阪から御帰洛になった年月日は明らかですが、かくて上人は一ヶ月余り後、すなわち、三月二十五日に、山科本願寺でご住生されたのであります。
なお、右の記事の中に「さんばの浄賢処にて」とあるのは、さんばの浄賢のところで……という意味で、さんばは現在の三番町であり、浄賢のところは蓮如上人のお弟子、浄賢が住した坊、すなわち、定専坊をいうのであります。これに依って見ますと、三番の定専坊は、蓮如上人が、大阪に最後のなごりをとどめられた所であるといわねばなりません。上人がその晩年に、十年ばかり苦労をして教田を開拓された、大阪を去ろうとするのは、感にたえないものがあったことでしょう。そして淀川の水路をお帰りになるに当たって、特に水辺の村、三番の定専坊に立ち寄られたのは、蓮如上人と浄賢に、格別深い因縁があったことは明らかです。しかもここでお代嗣ぎの実如上人に、ご遺言のおさとしまでなされていることを見ても、じつにお心おきなく、後のことまで話せる、信頼のできる場所であったことが知られます。

寺院紹介