石山戦争と了顕

石山戦争と了顕

浄賢の三代の孫、了顕の時に至って、石山戦争が起こりました。石山戦争というのは、元亀、天正の頃、織田信長が、東海を征伏して京都に上り、さらに中国、四国を征破しようというところから起こったので、これに対して中国の毛利氏、四国の総勢が、信長の西下を阻止しようと、石山本願寺を中心に、海陸両軍を動員して、頑強に応戦をつづけたのです。
その頃、石山本願寺には、本願寺第十一代の顕如上人がおられたが、この戦いは、じつに十一年の長きにわたっております。本願寺教団は、あながちに軍隊を確保して、天下を制定し、政権を奪うためにあるものではありません。
しかし、これはいわゆる戦国時代の武将が、おのおの野望をいだいて群雄割拠し、自分が天下の総権をにぎろうと企てて抗争した、渦巻きの中に巻きこまれた犠牲のかたちであったといえましょう。
そして、信長、西国の両勢が、共に石山本願寺を攻防の拠点においたということは、地形的に見て、当時における要害であったということは確かです。もともと信長という人は、仏教に反感をいだいて、京都に上ってからでも、比叡山を初めとし、京都附近の寺を、ずいぶん焼き討ちしたという事実があります。したがって、石山本願寺を粉砕して、一挙に西国を平定しようと企てたことは当然です。しかし信長の計略ははずれました。顕如上人を中心とする、摂津、河内、和泉、紀州の信者群はI勢にきそい立って、仏敵信長の手に滅亡されてはならないと、檄を飛ばして抗戦しました。これを好機と見て、中国の毛利、四国勢はさかんに援軍を送ったのです。でなければ、本願寺の信者群だけでは、とうてい十一年も抗戦することはできなかったでしょう。
当時の門主、顕如上人は豪邁な気性であったればこそ、よくこれに耐えぬいたのだと思われますが、これをめぐって、摂津の荒木村重、和泉の細川和匡、紀州の鈴木孫一等がめざましい活躍をしました。そのとき定専坊の了顕も、これらにまじって大いに軍陣を指揮し、信長勢を悩ましたようです。すなわち、石山戦記の中に、定専坊という名があらわれているのは、この了顕のことです。それは先祖の正成公以来、楠一統の血が流れており、寺門に身をひそめておっても、やはり戦国時代のならわしとして、ひそかに兵法等が伝えられておったものと思われます。
今でも、定専坊の宝物に、顕如上人の消息、荒木村重、細川和匡、鈴木孫一等の書翰と共に、軍揮扇、陣太鼓等が伝えられているのは、これを物語っています。
そして、ここに特に記しておかねばならないことは、石山本願寺にあった梵鐘が残っていることで、これは今でも境内の鐘楼堂に釣るされています。すでに四百年近い以前の什器ですから、重要文化財に準ずるものとして、大東亜戦争にも供出をまぬがれ、むかしのままで伝えられているのはうれしいことです。はじめ了顕がたまわったということですが、ただ惜しいのは、当時戦陣に用いられたために一部にひびが入っておって、余韻に乏しいことです。しかし、これを撞いて、その声音を聞いておると、古い歴史がよみがえってきて、法城を護るために働いた人びとの心境が伝わって来るようです。
それ以後の定専坊には、祖先の気迫におとらぬほどの学匠が現われて、江戸時代の宗門護持に貢献し、ずいぶん発展したものでした。

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