浄賢の転宗

浄賢の転宗

以上で三番村の成り立ちは一応知られると思いますが、前記の横玉山西光寺には、その後、楠一統の人たちが幽棲することになりました。すなわち、赤坂城主正成公が、湊川に戦死して以来、実子の正行、正儀公も、共に相次いで破れ去りました。その正儀公の嫡子二郎左衛門正勝は、南軍の滅亡と共に、西光寺に遁れ身をひそめていたが、ついにここで終られたといわれ
ます。それと共に正勝の子供であった、正盛、信盛両公もここで果てられたようで、この三公の古墳五輪塔が、今も境内に残っています。
これより先き、正勝は、祖父正成が本願寺第三代の覚如上人に交誼があったというゆかりから、第四代の善如上人をたずねて、浄土真宗の教えを聞いたと伝えられています。
かくて、さらにその子孫掃部助は、本願寺第七代存如上人に帰依して弟子となり、法名を浄賢と名のり、やがて、蓮如上人のときに至って、それまで真言宗に属していた西光寺を、改めて浄土真宗の寺として発足し、寺号を定専坊と公称するようになりました。その定専坊という名は、蓮如上人からたまわったもので、文明年間、山城の本遇寺が反逆して、上人の暗殺を謀っていたのを、浄賢はすみやかに見破って、これを退けたので、上人は深く喜ばれて、定専坊という名をたまわったといわれています。そのよ疋専クという文字は、善導大師の「散善義」の中にある、

一心に専ら陀弥の名号を念じ、行住座臥、時節の久近を問わず、念念に捨てざれば、
これを正定の業と名づく。彼の仏願に順ずるが故に……

というお言葉に依ったものと思われます。かくて、横玉山という山号は、行基菩薩開基のゆかりをそのまま承け、定専坊という寺号は、浄土真宗に改宗したとき、蓮如上人の命名に依ったもので、。今に横玉山定専坊と称しているわけは、こうした由来に依るのであります。
それ以来、蓮如上人と、浄賢の関係はますます親密となり、上人はしばしば三番の定専坊に立ちよっておられ、浄賢もまた上人につきしたがって、大阪を根拠とする、浄土真宗の発展につくしました。それならばこそ、先きに述べたように、上人が大阪から帰られるとき、ここに泊って最後のなごりをとどめ、後のことまでご遺言なさったのだと思われます。また浄賢も、そのまま上人に従がって山科本願寺にゆき、上人の最後、ご臨終の枕辺に、はべったという記録があります。
かくて、定専坊という寺号の起こりと共に、浄賢を、浄土真宗に改宗以後の、開幕第一代と定め、現在に至るまで、十六代に及んでおります。

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