天満の分立と月筌

天満の分立と月筌

江戸時代になってからは、一応天下が平定し、あらゆる文化の復興が企てられました。そして徳川幕府の宗教政策によって、東西本願寺が分立すると共に、寺門の経営は計画的に進められました。
この頃になると、定専坊も一応名跡であると認められ、多くの末寺を従えるようになりました。「本願寺史」にも記載されているとおり「天文日記」が綴られた頃には、大阪界隈の、真宗寺院の数といえば、二十ケ寺内外しかありませんでした。その中に定専坊の名が見えております。
それが江戸時代になると、東本願寺、西本願寺共、さかんに寺院を増やし、門徒の拡張に努めました。しかし、それらの寺は、いずれも前記二十ケ寺の、いずれかの末寺に属するものとして、登録されたようです。
「西成郡誌」に依りますと、江戸時代末期の定専坊には、七十ケ寺からの末寺があったと誌るされています。今でも、摂津、大阪の寺院の、古い過去帳を見ますと「三番定専坊門徒、何某寺」と記入されたものがある筈です。しかし、その制度は、明治維新に撤廃されましたから、現在はいずれも独立寺院として、宗教法人に登録されていることは、いうまでもありません。
定専坊は、了顕以後、四代了願、五代信了を経て、六代信詮の時代に、天満へ出張所を創立することになりました。信詮は長男であったが、三番よりは、天満が発展することを見越して、この挙におよんだことは、たしかに先見の明があったといわねばなりません。
そして、三番には、次男の了詮を住ませて留守役にしたようです。かくて天満は町と共に次第に発展し、商都浪花を代表するほどの盛況に至りました。それに比べて、淀川べりでひとえに水田を守っていた三番が、寂れていったのは無理もありません。ですから一時は天満が本坊のようにいわれたこともあります。
それはともかく、七代の乗信を経て、八代には有名な月答が現われました。その頃京都の本願寺では、第十三代の門主、良如上人が、宗学の興起をはかって、境内に学寮を建設し、子弟の教育を促進されていました。そして全国の末寺から、志しのあるものを集め、秀才の育英に当られました。
月笙も、その中の一人でした。本山の学寮で勉学すると共に、後には天満の自坊に学塾を設けて、研錐に努めました。かくて生涯、摂津、河内に遊化して、たゆまざる活動をつづけたといわれます。月答の学塾は、蓮華蔵閣と名づけ、当時は宗門の示標と仰がれたものです。月茶は温厚篤実な学匠であると共に、謹厳な態度で道俗を感化し、多くの人の帰依をうけました。師
の著述には「真宗関節」という論題の解説があり、また三部経を校訂開版する等、多くの功績を残されています。
明治になってからは、すでに述べたように、末寺は悉く独立し、三番定専坊は村の門徒だけを守って孤立するようになりました。したがって、門徒も極く少数になったことはやむをえません。そのうえ明治三十年に、淀川の改修工事があり、村全体が移転させられることになりました。淀川は、近江、山城から、ただ一筋大阪湾にそそぐ主流であったために、洪水のときはたちまち氾濫し、むかしから附近の人はたえず悩まされて来ました。そこでついに明治三十年、大阪府令を以って大改修を行なうことに決定されたのです。もとの淀川は、現在の所よりは、もっと南にあったようです。それが五百メートル近くも北に流域を移すことに
なったため、堤防に添うて、長く延びていた三番村の全体は、ぐんと北に移転させられたわけです。要するに、現在の淀川の河底が、もとの三番であったと考えればいいということです、そのため村の地域も縮小し、経費をたくさん費したため、定専坊の境内も、建物等も大きく削減されてしまいました。
古老の話に依りますと、もとの定専坊は、ずいぶん広い境内を有し、境内のうちに、鏡が池というものがあって、これはむかし蓮如上人が、みずからお顔を写して、記念のご寿像を画がかれたという伝説があるといわれています。その池の周囲には古い竹薮が繁茂し、その中に前に述べた、正勝、正盛、信盛父子の五輪塔
がありヽ昼なお暗い状態でヽ狐や狸が棲んでいるのを見たものがあるということです。しかし、現在はそういう広い境内も、池も、跡かたも無くなって、移転後日が浅いため、寿齢何百年というような樹木もありません。歴史の変遷と、人の世の興亡には、深く考えさせられるものがあります。
現在大阪の近郊は、とみに近代化してゆき、万国博覧会を目前にひかえて、水田は殆んど住宅地と化し、広い道路が縦横につけられて、学校その他の施設を造る工事の音響が、日夜聞こえるようになりました。歴
史と共に生きるものは、ただ過去の追憶に感傷の糸をたぐっておるだけが能ではありません。過去に偉業をなしとげた祖先がそうであったごとく、わたしたちは、来たるべき世の中を見越して、それに即応した意欲と努力に点火していってこそ、祖先の精神を嗣ぐ道であると考えられます。
幸わいに、天正の鐘声は、そのままに響いています。人間はいつの時代でも、人間の自己同一性として、心の主流に流れるものには、変りがない筈です。わたしたちは、このような鐘の音の中に、深く心に呼びかける声を聞き、自覚と反省をおこたらず、深く心の主軸となるようなものにめざめつつ、祖先の労苦を偲ぶと共に、将来の活動と発展に、確かな足どりを踏みしめ、子孫に伝えるような何ものかを残していくことが大切でしょう。

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