三番の歴史

三番の歴史

それでは、いったい三番とは、いかなる村であり、浄賢とはどんな人であったでしょうか。
近江のびわ湖に端を発し、大阪湾にそそぐまで、大小幾多の河川を集めて、畿内の中心を流れる淀川は、むかしの交通の枢軸であっただけに、山城、摂津、河内、浪華をめぐる、人の動きと、文化変遷の跡を物語る資料としても見るべきものがあり、したがって、興亡盛衰の哀史もたくさんに秘められております。
三番の近辺は、むかしは淀川の中洲になっておったので、今でもこのあたりに、中島という名称が残っています。そしてかなり早くから開けたと見えて、古い記録に依りますと、この辺一帯を草刈の荘といい、欽明天皇の時代には、天皇みずから観猟に出向かれたこともあり、そのときついていった侍従の臣たちが、一席の祝宴を設け、琴や笛を合奏して、天皇の万歳をた
たえたことが、深く天皇の気に入って、この地を-讃場(さんば-と呼ぶがよかろう—といわれたことが「さんば」の名称の起こりだといわれています。
しかし、先きに述べたように、現在三番と書かれているのは、水路の船着場、または渡船場を表示したもので、むかしは浪華から京都へいくまで、一番、二番、三番と順序を追うて、船の泊り場が設けられていたようです。そこから、この名称がつけられたという方が、事実かも知れません。
それにしても、前記の々讃場(さんば-という説も、あながちに否定されない-ということは、舞踊の中にと二番叟々というものがあり、京人形に三番叟というのが作られていて、寿(ことぶき)の象徴に用いられています。その三番叟という踊りは、もと三番に伝えられたものであって、三番から出たものだ-といわれていますから、讃場(さんば)の由来も、あながちに捨てたものでないと思われます。
その後、聖徳太子が四天王寺をご造営のとき、しばしばここを訪い、滞留されたこともあるといわれており、附近には天王寺の荘という所が残っています。
また聖武天皇の時代、天平年間に、行基菩薩が各地をめぐって、遊化されたが、そのとき草刈の荘、現在の三番に一寺を創建されました。その寺の名称は、横玉山西光寺というのですが、これが現在の定専坊の元であって、今でも定専坊の山号を、横玉山と称しているのは、そうしたつながりを物語っているといっていいでしょう。

寺院紹介